今更ながら『鬼滅の刃』を観に行ってきました。最高でした
本当に今さらですが、
『鬼滅の刃』の映画を観てきました。7月くらいからやっているはず
原作は読んでいなくて、アニメ版をアマプラでみて、しっかりハマり、熱を帯びた状態で行きました。
なので展開が今後どうなるのかも知りません。全部劇場で見たいので言わないでください笑
これは考察というより、
観ていて強烈に引っかかった一点についての話です。
それが、
猗窩座というキャラクターの「信念の在り方」でした。
猗窩座は「記憶」ではなく「信念だけで生きている存在」
鬼とは、「人間だった頃の記憶はほとんど失われているが、
信念だけが残って行動している存在」
これは物語上の設定ですが、
同時に、人間理解もできると思います。
猗窩座は、
自分がなぜ強さを求めているのかを、
もう正確には説明できない。
それでも、
「強くならなければ、生きていけない」
という確信だけは残り続け、
何百年も行動を支配している。
理由は忘れている。
目的も曖昧になっている。
でも、行動だけは止まらない。
この状態、
フィクションなのに妙にリアルでした。
信念とは「考え」ではなく「無意識の前提」
「信念」を、こう定義しています。
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事実ではなく、個人が確信している内面的な確信
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無意識領域に存在する
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「世の中はこういうものだ」と本人が信じ切っている前提
つまり信念とは、
疑う対象にすらならない前提条件です。
猗窩座にとって、
「強くなるかどうか」は選択肢ではない。
「強くならなければならない世界に生きている」
それが前提。
だから、
その前提の上で最善を尽くし続けているだけ。
善悪の問題ではなく、
世界の見え方の問題なんだと思いました。
信念は、かつて「生きるため」に必要だった
信念の多くが
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過去の体験
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トラウマ
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強い感情
から、無意識に形成されると説明されています。
猗窩座の場合もそう。
病弱な父。
貧困。
守るためには強くなるしかなかった。
その時点では、
「強くならなければ」という信念は
彼を生かすためのものだった。
ここが重要で、
信念は最初から人を苦しめるために生まれるわけではない。
むしろ多くの場合、
その人を守るために生まれる。
だから簡単には手放せない。
記憶を失っても、信念は行動を支配し続ける
鬼の特徴の中で、
とても人間的だと感じたのがここです。
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記憶は失われている
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それでも信念は残り続ける
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本人は「なぜその行動をしているのか」を分かっていない
つまり、
理由を忘れたまま、同じ行動を繰り返している状態。
これは、
人間にも普通に起きていることだと思います。
「なぜかこうしてしまう」
「理由は分からないけど、やめられない」
「同じところでつまずく」
それは意志が弱いからではなく、
信念が自動操縦で動いているから。
猗窩座は、
その極端な象徴として描かれていました。
信念は、気づかれない限り更新されない
信念の厄介なところは、
本人にとって当たり前すぎて、
存在に気づけない点です。
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信念は意識的に形成されない
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多くの場合、本人は自覚していない
だから人は、
「分かってるのに変われない」
「同じことを繰り返す」
そのたびに、
自分を責めてしまう。
でも実際は、
古い信念が、今も現役で世界を解釈しているだけ。
信念は「否定された時」ではなく「理解された時」にほどける
猗窩座が変化する場面で印象的だったのは、
説得でも、論破でも、力でもなかったことです。
起きたのは、
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記憶と感情が呼び起こされ
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「ごめん」と感情を吐き出し
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根本にあった感情に気づく
というプロセス。
信念からの解放・浄化。
信念は、
「間違っている」と否定されても消えない。
でも、
「そう信じて、生きてきたんだね」
と理解されたとき、
役割を終える。
それは壊れるというより、
静かにほどけるに近い。
人が変わるとき、劇的なことは起きない
この映画を通して、
あらためて思ったことがあります。
人が変わる瞬間は、
派手じゃない。
気合も、決意も、覚悟もない。
ただ、
自分が何を前提に世界を見ていたのかに気づく。
その静かな気づきが、
これまでの行動を少しずつ変えていく。
鬼の話だけれど、
かなり現実的な人間の話でした。
かなり遅れて観たけれど、
今の自分だからこそ引っかかった作品だったと思います。
